創世記6章
6:1 さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、
6:2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。
神の子らと言われる主の名を呼ぶ者たちが、人の娘と言われるカインの血筋の神の前に実を結ぶことのない人たちの娘を妻としました。美しいのを見たのです。
・「神の子」→神に属するもの。御使いのことではない。御使いは、娶ることも嫁ぐこともない。肉体がないので、肉の欲によって行動することはなく、肉体関係もない。
マタイ
22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
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6:3 そこで、主は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」
主の霊は、人の内にとどまっていました。もはや永久にとどまることはないと言われ、主の霊がとどまることがない時が来たことを表しています。アダムは、鼻から息を吹き込まれ、主の霊を受けました。しかし、ここで終わるのです。
その理由が示されていて、それは、人は肉にすぎないからです。神の霊に従って生きるのではなく、肉に従って生きる者にすぎないからです。神の霊を留めておく意味がなくなってしまったのです。
神の子らと言われる、神に属する人たちが、肉に従い、人の娘を妻としたのです。彼らの、美しいものを手に入れたいという欲望のままに求めたのです。
それで、人が肉によって生きるような生き方をするのであれば、長い期間生きていてもあまり意味がありません。それで、今までよりも大幅に短くし、百二十年にしようと言われるのです。
6:4 神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子ができたそのころ、またその後も、ネフィリムが地にいた。彼らは昔からの勇士であり、名のある者たちであった。
ネフィリムは、巨人という意味です。彼らは勇士で、名のある者たちでした。
6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
人の悪が増大し、人の心に図ることが皆いつも悪に傾いていたのを見られ、悔やまれました。心を痛められたことは、主の期待に反していたことへの悲しみでした。彼らを滅ぼさなければならないからです。
6:7 そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」
洪水の主たる目的は、人を滅ぼすことです。しかし、人が支配する生き物を消し去ると言われます。
裁きによって一つの時代が終わり、残りの者が世界を受け継ぐことは、今の時代の終わりにも起こります。
6:8 しかし、ノアは主の心にかなっていた。
そのような時代の中で、ノアは主の心に適っていました。
6:9 これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
ノアが主の心に適っていたことは、彼が正しい人であったこと、彼の世代の中で全き人であったのであり、神とともに歩む人であったからです。
6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤフェテを生んだ。
6:11 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。
地は、堕落し、暴虐に満ちていました。全ての者が自分の道を乱していたからです。それぞれが正しい道を歩もうとしなかったからです。
6:13 神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。
神は、ノアに地を滅ぼすことを告げられました。地が暴虐で満ちていたからです。神は、「滅ぼし去る」と言われましたが、それは、すでに人々がそのような状態にあったからで、その「滅ぼし去る」と同じ語が、人々の状態を表す語として使われています。
「堕落」と訳されている語が該当しますが、道を「乱していた」も同じ語です。神の裁きとして「滅ぼし去る」と同じ語が民の霊的状態として使われることで、「堕落している」ことや「道を乱している」ことは、神の前に滅びの状態にあることを表しています。すなわち、神の前に死んでいるのです。もはや実を結ばない、滅びの状態にあったのです。それで、それにふさわしい裁きとして滅ぼし去られるのです。
6:14 あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外にタールを塗りなさい。
箱舟の材質は、ゴフェルです。原語が指すものは、明確ではありません。部屋は、積み荷が偏らないために必要なものです。
タールは、覆うという意味と贖い金という意味があります。ノアたちを滅びから救う贖い金の比喩です。
6:15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。幅は五十キュビト。高さは三十キュビト。
三百は、百を単位として三。三は、欠けのない完全さを、百は聖別を表しています。聖別は、いかに俗なるものと分離するかすなわち距離を取るかということにかかっています。これは、長さと関連づけられています。
五十は、五を単位として、十です。五は、幕屋や神殿の数字の基本単位となっていて、御心を行うことを表しています。十は、到達点を表しています。御心を行うことは、父を満たすものになります。御子は、なすべきことの全てを成し遂げて、父の栄光を現されたのです。それは、幅と関連付けられていて、父の御心を行う程度を表し、父を満たす程度を表しています。
同様に三十は、欠けのない完全さを表す三と到達点を表す十からなり、その到達点は、神の完全さであることを表しています。これが高さと関連づけられていることで到達した完全さの高さを覚えさせます。
これは、キリストの栄光を数字の比喩で表しています。人となられて、肉にあって神の御心を行い、なすべきことを完全に行い、完全な聖別を現されたのです。それゆえ、贖いの代価となることができました。
この箱舟は、バプテスマの比喩であって、信者にも適用されています。キリストと同じように、肉にあって、肉にはよらず神の御心を完全に行い、聖別されることの比喩であり、その模範者は、キリストです。
ペテロ第一
3:20 かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。
3:21 この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。
3:22 イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。
4:1 キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。
4:2 それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。
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肉があることで、肉との戦いがあり、肉を殺すために苦しみがあるのです。肉を殺すことで、欲望に従わず、神の御心を行うことできる者となるのです。バプテスマは、肉に死に、新しく生まれた者として御霊によって歩むことで御心を行い、報いを受けることです。それを「イエス・キリストの復活を問うして救う」と表現しています。キリストが神の右の座に上げられたように、神からの高い評価を受け、栄光を受けることになります。
6:16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内に天窓を仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、箱舟を一階と二階と三階に分けなさい。
一キュビトは、一により独り子の御子を表しています。天窓は、鳥を放って情報を得るための窓で、光としての御言葉を受け入れる窓です。それは、一キュビト以内と記されていて、独り子の御子の内にあって開かれている必要があり、御子をとおして与えられる言葉です。
戸口は、救いの入り口です。そこは、入るのに易く、三によって表される完全な高みに達することができます。また、達すべきなのです。なんと多くの人が入り口にとどまっていることか。
6:17 わたしは、今、いのちの息のあるすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去るために、地上に大水を、大洪水をもたらそうとしている。地上のすべてのものは死に絶える。
6:18 しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは、息子たち、妻、それに息子たちの妻とともに箱舟に入りなさい。
この救いは、契約によるものです。箱舟に入ることがその条件です。
6:19 また、すべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつを箱舟に連れて入り、あなたとともに生き残るようにしなさい。それらは雄と雌でなければならない。
6:20 鳥は種類ごとに、動物も種類ごとに、また地面を這うすべてのものも種類ごとに、それぞれ二匹ずつが生き残れるよう、あなたのところに来なければならない。
鳥も動物も二匹ずつ入れられました。
6:21 あなたは、食べられるあらゆるものから採って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物のための食物としなさい。」
食料として鳥や動物が集められることはありませんでした。食物は、地から生えた物や果物です。すべての鳥や動物がそれを食べたのであり、鳥や動物を食べることはまだありませんでした。
6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。
ノアのしたことは、すべて神の命じられたとおりです。それは、主の目にかなったことであり、神の計画の実現のためには、どうしても必要なことでした。そして、比喩としてキリストの栄光を現すために、完全に従う必要があったのです。